御祭神・由緒

御祭神・由緒

御祭神

菊理媛命くくりひめのみこと 伊弉諾命いざなぎのみこと 伊弉册命いざなみのみこと

菊理媛尊は、伊弉諾尊・伊弉冉尊が黄泉比良坂にて対峙された折に、両柱の仲を取り持たれた神様です。

伊弉諾尊・伊弉冉尊は国土をお創りになったご神霊であり、また天照大御神のご両親でもございます。

その御神徳は和合・縁結びに優れ、良きご縁を結ぶお力をお授けくださいます。

境内社

床主宮とこぬしのみや床主神
当神社古墳に埋葬されたお方をお祀りしております。
脇宮菊里屋根神きくざとやねがみ
当神社北方にある菊里町に祀られておりました屋根神【天王社、御祭神・須佐之男尊】を境内地に合祀申し上げております。

由緒

神社の境内

当神社は、元明天皇の御代・和銅五年(712年)、白山本宮・白山比咩神社より御分霊を勧請し、現在の地に御創建されたことに始まります。
以来、時代の趨勢に左右されることなく、地域の人々より篤い崇敬を受け続けてまいりました。

慶長十五年(1610年)、御陽成天皇の御代に尾張藩初代藩主・徳川義直公が当社に深い御崇敬を寄せられ、名古屋城築城の際には祈願のため参拝されました。築城完了時には「白山妙理大権現」の社号を当社へ贈り、その御謝意を表されました。

名古屋城築城に伴う城下町整備(いわゆる「清須越し」)の折には、当社の境内地とよく似た清須城下・朝日郷に鎮座していた白山宮を合祀されました。
また、その折に合祀に尽力されたのが、義直公の命を受け功徳山円教寺(当社北西)を建立された玄海上人でございます。
立地上、名古屋城から当神社までおよそ一里であることから、当神社を名古屋城下東南端と定めそれを境に城下と村落に分けられました。

古い地図
宝暦12年(1762年)の「宝暦十二午改名護屋路見大図」にも、白山神社の記載がございます
愛知県立図書館所蔵、宝暦十二午改名護屋路見大図より白山神社周辺を引用
引用元はこちら

以降、当神社は名古屋城東南を鎮護する社として、尾張藩歴代藩主より厚い御崇敬を賜ってまいりました。
飯田街道での名古屋城下入り口として、城下町とともに歩みを重ね、地域の安寧と往来する人々を見守り続けております。

明治以降、大東亜戦争中の名古屋大空襲や伊勢湾台風など、度重なる戦火・自然災害による被災を受けながらも、氏子崇敬者の皆様の温かいご支援により境内・社殿は整えられました。
昭和42年に拝殿、手水舎、平成8年新社務所を建設いたしました。

今なお新栄界隈の氏神様として、また商売繁盛の神様として、遠近を問わず多くの崇敬を集めるお社でございます。

境内の様子1 境内の様子2 境内の様子3